幼児に家事を手伝ってもらう部分が少なくなってしまいました

幼児の場合

子育てをしているお母さん達は今は勝っていても、いつか頭を打つときが来るだろう。その時にその子どもは、勝ち負け以外の価値を教えてくれる賢人と出会えるだろうか。もし出会えなければ、その子どもは勝てなくなった後は永遠の敗者のまま生きていくか、それはただの現実逃避となるだろう。不健全な形で勝ち負けとは違う生き方を選ぶことになる。私の長男は、未熟児ギリギリで生まれたことから、発育曲線の番下のラインの前後をうろうろして育った。

子どもに悪影響を及ぼすという事は

発達障害の影響もあるのか、運動機能の発達も遅く、駆け足はいつも最下位で、その他の運動も上手くできないでいた。言葉の発達も遅めだったので、友人関係でもいつも後手後手に回る。典型的なダメダメな子どもだった。でも、それが良かったのだと思う。最初から他の子どもと比べようなどと思わなくなった。子どもは自分の意志で自分の好きなように振る舞うことができなくなります

児童の考える力を養うことができます

作品を仕上げた後、ある生徒が「センセーもう一つ出来上がりS☆」とさも満足げな顔でもう一つの生け花を持って駆け寄ってきました。その生徒は指導の作品を仕上げた後、外へ出て、枯れ枝空き瓶、転がっていた石などを探して回り、そして、それらを自由に創作し、お花を思いっきり楽しんで生けていたのです。「マリコセンセ、今日の指導って何だったのでしょうね、、し指導された先生が呟かれました。その生徒の作品が自由に伸びやかで目を見張るほどに一番素晴らしかったのです。「要らぬお節介の指導でしたねー」と苦笑いの私たちでした。

幼児にまかせてやってもらいましょうお手伝いをさせるには

子どもの事故や事件を防ぐには
また、ある絵画レッスンで三歳のMちゃんがリンゴを描いていました。横にいたお母さんが必死に「Mちゃん!リンゴは丸いでしょ!それに赤いんだよー」と言われました。即座に「Mのリンゴだもん」とMちゃんは言い放ち、お母さんの言葉なんぞ聞く耳もなくドンドン作品は出来上がりました。歪な形の可笑しなリンゴさんが出来上がりました。Mちゃんはとても嬉しい顔です。けれども、画用紙の中には未だ白い空きスペースがありました。またまた、お母さん。
子供とコミュニケーションをとることは

実は裏目に出ているということになります幼児を

つらいしょうが、周りは敵ばかりではありません。人間、どんな逆境に立たされ、気づくものです孤独感を味わっても、自分が心を開きさえすれば、思っている以上に味方が多いということに親同士の信頼関係があれば、子ども同士が少々ケガをするようなトラブルを起こしても、大きな問題には発展しない場合がほとんどになります。元気の良すぎる男の子の親こそ、子どものために一肌脱いで、PTA役員なんかをやってみてはいかがでしょう。そして積極的にたくさんのママたちとの信頼関係を築くように意識してみましょう。それだけでトラブルがトラブルでなくなり、自分の居場所も、子どもの居場所も、居心地が良くなるはずです。

育てのためにできることがあります

コミュニケーションはおおらかだったんですね
過干渉よりは過保護がベター「元気が良すぎるからといって、叩いたり、怒鳴ったりしてしつけても意味がない。叱る必要すらあまりない」というようなことばかりを書いてきたのですけれど、こういうことをお話しすると、講演会の会場では、「まったく叱らないでも大丈夫なの?ときには叩いてでも叱ることが必要なのでは?」という質問をいただくことがありますみなさんはどう思われますでしょうか。「まったく叱らないで大丈夫なのか?この質問の前提自体があり得ないと思いますまったく叱らないなんて不可能でしょう。私にだってできません「絶対に叱らないでしつけをするぞ!」とどんなに強く誓ったって、日々の子育てライフの中では、無意味に叱ったりしてしまうだってみなさん、そんなに意志が強いわけではないでしょう(笑)。「今日からダイエットするぞ!もうお菓子は食べないぞ!」と誓ったそばからおせんべいをつまんでしまうようなものです。

幼児の行動原理です

私たち大人はどこかで児童には

自分の苦悩をわかってくれる人がだれもいない。そのようなむくわれない思いでいっぱいになり、この母親は、子育てのよろこびを見失いかけているのです。このケースでは、まず赤ちゃんをよく抱いて、大きな声であやすことを指導しました。そして、掃除や洗濯や食事の用意などは、御主人に手伝ってもらうこと、上の子も夜はしっかりと抱いて、一緒に寝てあげること御主人にも私から話をした方がよいから、次回の診察日には一緒に来るように、などと話しました。この母と子どもたちの困難な状況を、よい方向へもっていくには、赤ちゃんと上の子の、どちらをもよく抱いてあげるしかありません。

ほかのすべてのことを捨てるぐらいの気持ちで、子どもをよく抱くことに専念するとよいのです。このケースでは、指導をしてわずか11カ月後、いろいろな難問題がみごとに解消されていきました。母親にも優しい微笑みが回復し、赤ちゃんも母親の目を見て笑うようになり、上の子のわがままも少なくなり、言葉も覚えていきました。御主人が私の話をよく理解されたことが、大いに幸いしたのだと思いま母親の目を見ない「サイレントベビー」この例のような赤ちゃんが増えています。十年ほど前のことですが、私の外来を訪れる赤ちゃんのうち十人に1人は、母親の目を見て笑うよりも蛍光灯をじっと見つめている方が好きな、無表情の赤ちゃんでした(初期育児でよく抱いて育てることがかなり一般化してきた最近では、このような赤ちゃんが少なくなってきました。

  • 空気の存在をカラダで確かめた児童に対し
  • 子ども大勢といった具合で
  • 幼児からすると当たり前ではないんです

子どもたちにもその影響が及んでしまいが

子どもがお母さんがくそまじめであったり十五歳の高校生の教師は、三十五歳以上四十五歳以下のときが自然に三尺の心理距離をもっていて理想的である。教師として油の乗り切った世代だ。それより若い人は車間距離を大きくするように、それより年上の教師は距離を縮めるように努力するべき若い教師はなるべく年をとって見える努力をし、逆に年輩教師はすこしでも若々しくなることを心掛けるつまり、ナマの年齢を感じさせないようにしないと、本当の教育ができない。教育者が年の割に若いのは、知らず知らずにこれを実行しているのかもしれない。若い教師がなんとなくジジクサク見えるのも同じ理屈かもしれない。

お母さんの病気の世話をよくする-といった場合ですこのような子どもには世人、これをあなどることなかれ。人間というのはこの字を見ても、間(ま)というものが大事であるらしいことがわかる。教育は人間を人間らしくする営みだから、ことのほか師弟の間の距離に敏感である。昔の人はそれを象徴的に影をふまずと言った。こういう言葉も忘れられたため、学校のみ多くなったものの教育はかつてない荒廃に苦しまなくてはならなくなっている。

幼児に何かをさせるという言葉を使っている保育者や研究者は

かつて教職のことを教壇に立つと言ったが、いまや比喩としても有効ではない。立ちたくても教壇はすでにない。教壇をなくしてみて、これはたんなる権威の壇ではなかったことがわかった。教壇なしで先生が立つと後ろの生徒が見えない。生徒からも見えない。それで教員志望の大学卒業生の身長を一五五センチ以上と規定したこともあったのは傑作である。教壇があれば一五四センチでも先生になれたのに、不自由なことだそんなことはどうでもいい。

教育論があるように思います

子どもからは見えないように教育とは教師と生徒の距離において行なわれる精神の秘儀であることを、それといっしょにみんなが忘れてしまった。生徒と遊ばない教師は封建的と見られるのではないかと勝手に気をまわして、生徒とたわむれるあわれな教師が続出したそんな先生は、生徒にとっても結局はおもしろくないのである。教師というクルマと生徒というクルマには車間距離が必要で、それをあまりつめると、どちらにとっても危険がおこる。そういうことを戦後派の教師は知らなかった。先生にわからぬことをこどもが知るわけがない。