幼児の行動原理です

私たち大人はどこかで児童には

自分の苦悩をわかってくれる人がだれもいない。そのようなむくわれない思いでいっぱいになり、この母親は、子育てのよろこびを見失いかけているのです。このケースでは、まず赤ちゃんをよく抱いて、大きな声であやすことを指導しました。そして、掃除や洗濯や食事の用意などは、御主人に手伝ってもらうこと、上の子も夜はしっかりと抱いて、一緒に寝てあげること御主人にも私から話をした方がよいから、次回の診察日には一緒に来るように、などと話しました。この母と子どもたちの困難な状況を、よい方向へもっていくには、赤ちゃんと上の子の、どちらをもよく抱いてあげるしかありません。

ほかのすべてのことを捨てるぐらいの気持ちで、子どもをよく抱くことに専念するとよいのです。このケースでは、指導をしてわずか11カ月後、いろいろな難問題がみごとに解消されていきました。母親にも優しい微笑みが回復し、赤ちゃんも母親の目を見て笑うようになり、上の子のわがままも少なくなり、言葉も覚えていきました。御主人が私の話をよく理解されたことが、大いに幸いしたのだと思いま母親の目を見ない「サイレントベビー」この例のような赤ちゃんが増えています。十年ほど前のことですが、私の外来を訪れる赤ちゃんのうち十人に1人は、母親の目を見て笑うよりも蛍光灯をじっと見つめている方が好きな、無表情の赤ちゃんでした(初期育児でよく抱いて育てることがかなり一般化してきた最近では、このような赤ちゃんが少なくなってきました。

  • 空気の存在をカラダで確かめた児童に対し
  • 子ども大勢といった具合で
  • 幼児からすると当たり前ではないんです

子どもたちにもその影響が及んでしまいが

子どもがお母さんがくそまじめであったり十五歳の高校生の教師は、三十五歳以上四十五歳以下のときが自然に三尺の心理距離をもっていて理想的である。教師として油の乗り切った世代だ。それより若い人は車間距離を大きくするように、それより年上の教師は距離を縮めるように努力するべき若い教師はなるべく年をとって見える努力をし、逆に年輩教師はすこしでも若々しくなることを心掛けるつまり、ナマの年齢を感じさせないようにしないと、本当の教育ができない。教育者が年の割に若いのは、知らず知らずにこれを実行しているのかもしれない。若い教師がなんとなくジジクサク見えるのも同じ理屈かもしれない。

お母さんの病気の世話をよくする-といった場合ですこのような子どもには世人、これをあなどることなかれ。人間というのはこの字を見ても、間(ま)というものが大事であるらしいことがわかる。教育は人間を人間らしくする営みだから、ことのほか師弟の間の距離に敏感である。昔の人はそれを象徴的に影をふまずと言った。こういう言葉も忘れられたため、学校のみ多くなったものの教育はかつてない荒廃に苦しまなくてはならなくなっている。

幼児に何かをさせるという言葉を使っている保育者や研究者は

かつて教職のことを教壇に立つと言ったが、いまや比喩としても有効ではない。立ちたくても教壇はすでにない。教壇をなくしてみて、これはたんなる権威の壇ではなかったことがわかった。教壇なしで先生が立つと後ろの生徒が見えない。生徒からも見えない。それで教員志望の大学卒業生の身長を一五五センチ以上と規定したこともあったのは傑作である。教壇があれば一五四センチでも先生になれたのに、不自由なことだそんなことはどうでもいい。

教育論があるように思います

子どもからは見えないように教育とは教師と生徒の距離において行なわれる精神の秘儀であることを、それといっしょにみんなが忘れてしまった。生徒と遊ばない教師は封建的と見られるのではないかと勝手に気をまわして、生徒とたわむれるあわれな教師が続出したそんな先生は、生徒にとっても結局はおもしろくないのである。教師というクルマと生徒というクルマには車間距離が必要で、それをあまりつめると、どちらにとっても危険がおこる。そういうことを戦後派の教師は知らなかった。先生にわからぬことをこどもが知るわけがない。

しつけ長に対するおじぎには

教育にとって

幼児の要求を丸呑みするのではなく
私も子供の頃に、よく店番を任されました。店番を任されると、責任の重さを感じて緊張した覚えがあります。それと同時に、親からの信頼を感じ、その信頼に応えようとしていた事を覚えています。その時の気持ちは、親から「任せられる」と言う事が、一人前に扱われたように感じ、誇らしげで嬉しかった事も覚えています。私は自分の子供にも、小学1年だったか2年だったか記憶が定かではありませんが、「ご飯炊き」の仕事を与え、子供はそれ以降今日に至るまで毎日欠かさずご飯を炊いています。

子どものおなかが当たるようにうつぶせにして

その外にも、親がご飯を作ったら、子供は洗い物を手伝うとか、その洗い物も子供と喋りながら、私が洗って子供が拭くと言ったように、なるべく子供が楽しめるように冗談を交えながらやってそうした共同作業の中で、子供から「拭いた食器を片付けて」その為、いつもお手伝いしてくれるので未だに楽です。と言う要求があれば、要求通りに食器を片付けて、出来る限り家庭の中に社会性を持ち込んで育てました。協力と分け合いこの「協力と分け合い」こそが、人間の社会性の基礎であり、協力と分け合いは「相手を信じる事」により成り立っています。今まで書いて来たように「相手を信じる」と言う事の基礎にあるのが親子の「盈着閨係」です。愛着関係が結ばれずに育つと他人を信じる事が困難になり、人を信じられなければ社会性を持つ事が出来ません。

 

子どもによく言うセリフですね

幼稚園が女の先生でないとやって行けない現実があることも、多くの人が認めている通りである。小学校に女の先生がふえたからといっておどろくことはない。ただ、男性的性格を忘れてしまうと教育は骨格を見失いかねない。目先の細かいことはやかましく言っても長い目で人間の教育は何をなすべきかというようなことが欠落しては、泰山鳴動してねずみ一匹出ないかもしれない。教育熱が高まって教育はいよいよ荒れ乱れるというおそれもある。

育てるようにと提案したことを話すと
家庭で父親と母親とが、おのおの違った役割をもってこどものしつけに当っているとき、もっとも効果をあげる。それと同じように公教育においても、男性的要素と女性的要素とが程よく調和したとき、もっともよい成果を望みうるであろう。学校に女性教員が多くなってきたのなら、それだけ意識的に男性的理念を導入する必要がある。入試問題を改善すれば教育問題がすべて氷解するように考えるのは、のを見てほしい。間違いである。もっと大局に立ってもそこに行くと、あまり学校好きではなかったと思われる政治家が教育について考えようとするのは大きな意味がある。

 

幼児達も全く同じで幼稚園

うまく忘れることができなくてはならない。どうしたら、まず、汗を流すこと。体を動かすと、頭の血のめぐりの悪いはずがない。血行がよくなる。頭も体の一部だから、体の血のめぐりがよくなれば運動などしていては勉強はできないという妙な常識を促進し、勉学への意欲を高める。頭の働きもよくなる。ができてしまっているが、適度の運動は、勉強にも体を動かすことをもっと加味しなければな同じことを続けていると疲れやすい。

教育が先になってもよく

それでせっかくの頭をダメにしてしまうことがいかに多いことか知識を習得するのは大いに結構だが、覚えたものをそのまま頭の中へしまい込んでおくのがよろしくない。だいいち知識を吸収するには頭の腹をすかせて食欲を高めておく必要がある。はげしい勉強をするのなら、それだけ積極的な忘れ方を工夫しなくてはならないであろう。これまでは忘れては困るとばかり思っていたから、わからなかったのだが、いざ忘れようとしてみると、れが案外、生やさしいものではない。忘れようとすればするほど忘れられないこともある頭の働きをよくするには、られるのか。

子どもの個性を伸ばす親

しつけがよくなるように考えてはすこし甘い

けがのすすめたくましかった昔の子どもたち
だとすると、相手の言葉を自分勝手にホンヤク着色したりして、それを相手の言葉だと思い込む始末が悪い。こういう人たちの間では、いつなんどきデマが広がるかしれない。地震がこわいと思っているときに、近いうちに大きな地震のおこる可能性があるという通達が流されるまかいことは切りすてて大地震がおこる、今日おこる、というような誤報になって広まって大騒動になるそれほどのことでなくても、聞き違いで迷惑するのはしょっちゅうである。われわれの耳は大事なことをしっかり受けとめることができないのか。馬耳東風と聞き流しているのであろ口だけの話をあまり信用しない。証文を書けという。一札入れてくれ、うか。

幼児が多いのですとくに

馬の耳をもっているお互いは、勉強も目でするものときめてしまっているから、人の話をきいて知ったことなど頭からバカにしている。学問というのは正式な教育によらない知識のことで、学問でないとされるのである。大人がうわの空で聞いているから、こどもがうわの空にしんにゅうをかけた聞き方をしていてもしかたがない。だいいち、人がしゃべっているときに、おとなしくしていない。うるさくしゃべる。学校では先生がいつもどなっていなくてはならない。静かにしないか」静かにしたからといって、先生の言うことをよく聞いているという保証はどこにもないが、静かになれば先勝手なことをべらべらしゃべる。生はそれで安心してしまう。

 

幼児の全体の生活の中で考えること

花がいつもあるのはかえってよくない。5お母さん先生教育ママということばがある。ちのことを指すらしい。どういうお母さんのことかと思うと、塾や学校えらびに目の色を変える人た自分で教育をするのでなければ教育ママはおかしい。そういう疑問をもつ人がほとんどいないのは、もっとおかしい。だいたい、教育は学校でするもの、してくれるもの、という他力本願の考えが間違いのもとである学校では遅すぎる。幼稚園でもまだ遅すぎる。

教育に関心をもっているようなことを言うがその実案外
生れ落ちたその瞬間から人間としての教育は始まらなくてはこれは前にも書いたことだが、鉄は熱いうちに打て。あるところで、話をした中で、そう言ったら、あとで質問を受けた。さかんに「打て」「打て」とおっしゃいますけれど、体罰をしなくてはいけないのでしょうか、という。これにはおどろいた。いまの人の頭がそれほど幼稚だとは思ってもみなかった。もちろん、教育はなるべく早い方がいい、早いほど効果があるという教訓である。

 

幼児からいろいろと難問をつきつけられながらそれが

遠足でひつじに草をやれない子にも「怖くないよ。やってみなよ」とゴリ押ししていたからです。そうしてもちろん、それではうまくいきません。ます「いい。こわい」と委縮します。それを見てじりじりしていたのですから、とほほです。子どもはますタイプを知ると、そこから抜け出せます。

子どもの脳をきちんと

子どものサマーキャンプではのように、怖がる子にもなかなか草をあげることはできないはずできっと恐怖心が消えず、「やってごらん」だとどうなるでしょう。どの子にも同じ対応-うまくいかない-子ども困惑!自分イライラこんな負のスパイラルができあがってしまいます。「当然でしょう、合わせないんだから」と思いますか。る人もたくさんいます。冷静に考えればそうですが、実際は自分流を貫いてい、学校の先生習い事の講師スポーツの指導者あなたの周りの大人は、お子さんに合わせた指導をしてくれますか子どもの性格をよくわかっていますか。そういう私は、まったく人のことを言えません。